歴史講座講師・菅野正道氏(郷土史家・元仙台市史編さん室長)が、仙台藩志会会報に仙台藩の歴史について寄稿しています。

以下、仙台藩志会「藩報 きずな 第64号」(2020年(令和2年)10月10日発行)より転載

仙台藩志会「藩報 きずな 第64号」

仙台藩政史の再評価

郷土史家 元仙台市史編さん室長 菅野正道

歴代藩主講座

 昨年度、東北福祉大学仙台駅東口キャンパスを会場に、仙台藩歴代藩主の事績を紹介する講座が開催された。前々年に伊達政宗、前年に戊辰戦争をテーマとして通年で月に一度のペースで開催された講座を継承し、歴史講座の第三弾として企画されたものだった。東北福祉大学が主催となり、河北新報社と一般社団法人心のふるさと創生会議が共催して行われたこの歴代藩主講座は、毎回三百人を超える受講者が集まるほどの好評を博したが、折からの新型コロナウィルス感染拡大の余波を受けて、最終回の十三代藩主伊達慶邦の回が実施されなかったことが惜しまれてならない。
 この企画が構想された際に、主催サイドから内容や講師についての相談を受けた。その際に考えたのは、以下のようなことであった。
 仙台藩の藩主は全部で十三人なので、すでに通年で講座を開催した初代藩主政宗を除けば十二人となり、単純計算では月に一人ずつ紹介すればちょうど一年で全藩主を紹介することができることになる。しかし、四代藩主綱村や五代藩主吉村のように、藩主在任期間が四十年以上に及んで多くの治績を残し、研究も多い藩主がいる一方で、江戸時代後期の藩主は多くが在任十年前後であり、同列に扱うのは公平とは言い難い。そこで何人かの藩主は二人で一回分とすることにした。そうなると今度は講座の回数が一年分=全十二回に届かなくなる。その分については、藩主が若くして亡くなる事態が続く江戸時代後期に藩政を支えた七代藩主重村の実弟で四十年以上にわたって幕府若年寄の重職にあった堀田正敦と、藩政に重要な役割を果たした藩主夫人を取り上げる講座を設けることで、別表のように全十二回の講座が開催されることとなった。
 各回とも、担当講師が最新の研究を踏まえてわかりやすく熱のこもった講義を行い、二代忠宗・四代綱村・五代吉村のように比較的知名度がある藩主はもとより、相次いで早世した江戸時代後期の青年藩主たちについても、その治績や個性が明らかにされた。これまで『宮城県史』『仙台市史』でしか知るすべのなかった歴代藩主の事績が多くの市民の前に公表された画期的な講座であったと評することができる。
 この歴代藩主講座の中で、私は六代藩主宗村を担当したほか、講座の初回で「仙台藩の二七〇年」と題して仙台藩の概説を担当し、仙台藩政の特色、歴代藩主やその親族などについて紹介した。ここでその一部を紹介したい。
仙台藩歴代藩主講座全十二回

仙台藩の石高

 仙台藩の石高が六十二万石である。現在の宮城県域、 岩手県の南半分、福島県の新地町で計六十万石。 これに常陸国などで一万石、近江国一万石の飛び地を加えて六十二万石となる。これは、加賀藩前田家の百四万石、薩摩藩島津家の七十七万石に次ぐ、全国で三番目の石高となっている。
 仙台藩の石高については、「仙台藩は六十二万石だが、実は新田開発によって実質百万石以上になる」 と評されることがある。仙台藩の六十二万石という石高は、幕府から公認された数値で、こうした石高は「表高」と称される。幕藩制の研究は、この「表高」が実態を示したものではなく、中央政権=幕府と大名とが政治的に調整した数字であることを明らかにしている。すなわち、大名の石高=表高は、大名の序列の基準、戦時の際に引き連れるべき軍勢や手伝い普請などにおける工事分担量の目安となる数字であった。大名の領地の実際の生産高(「実高」「裏高」と呼ばれる) は表高よりも上回るのが普通であった。
 仙台藩の場合、実高は二代藩主忠宗の頃には約七十五万石で、四代藩主綱村の頃に約百万石となり、幕末までこの値が維持される。この実高=百万石は、幕府も承知している数字であった。江戸時代中期以降、領内が凶作に見舞われると各藩はその状況を幕府に報告するようになるが、仙台藩でも天明飢饉や天保飢饉の際に、凶作で収穫が無かった分=損亡高を、最大で九十一万石などと、表高を上回る数値を堂々と報告している。
 しかし、仙台藩が幕府に報告している実高百万石も、仙台藩の実際の生産高よりもかなり低い数字であったようだ。仙台藩の百万石という実高は、実は仙台藩の検地帳、すなわち課税台帳に登記された生産高にすぎない。しかし仙台藩は検地の際に厳格に耕地を登記することを戒め、また小規模の開発などにおいては検地を受けないままになることが普通であった。したがって新田開発が進む中で、藩内には検地帳に登記されず、年貢を納める必要の無い「余計の地」と称される耕地が大量に存在するようになった。そうした「余計の地」を含めた仙台藩領の真の生産高は少なく見積もっても百五十万石、おそらくは二百万石近くに達していた可能性が高い。

一門と奉行

 仙台藩の家格制で最高位にある一門は、戦国大名の後裔や藩主親族を祖にする十家ほどである。一門と藩政の関係については「一門は藩政に関わらない」と言われることがあるが、これは誤りで、正しくは「一門は藩の役職に就くことはない」である。
 初期の政宗・忠宗が藩主であった時代に一門衆が藩政に関わることはほとんどなかった。しかし、伊達騒動の発端となった三代藩主綱宗の強制隠居事件を契機に、一門はしばしば藩政に大きく関与するようになる。伊達騒動=寛文事件がその代表例であって、一門が藩内対立の主役になっている。 伊達騒動後は、 藩主が親政を行って藩政改革を進めようとする際に、藩内の保守派を代表する形で一門衆が反対運動を起こす例が、何度も見られる。 また十二代藩主斉邦の治世下、斉邦は実父である登米伊達家当主の宗充にしばしば助言を求めるなど、一門衆が藩主を補弼することもたびたびだった。仙台藩政の歴史は、藩主と一門衆の緊張と融和が常に重要な基軸になっていたと言っても良いかもしれない。
 仙台藩政における最高執行機関は奉行である。他藩の家老に相当するこの役職は、仙台開府から約五年を経た一六〇五 (慶長十) 年頃に、大條実頼・奥山兼清・鈴木元信・津田景康・古田重直・山岡重長の六人が任じられたのに始まり、戊辰戦争期までに一三〇人余りの藩士がこの職に就いている。
 一般に家老と言えば、その藩の家臣でも最も高禄の家柄の者が選任され、世襲されることが多い。しかし、仙台藩で奉行となった家臣の名前を見ていくと、そうした一般論とはかなり違った状況であることが見て取れる。
 まず奉行となった者の家禄を見ていくと、就任時に家禄一万石以上だった例は、茂庭定元・茂庭姓元・片倉景長・片倉村典・片倉宗景の五例しかない。一方で、家禄が一千石に満たない家柄の出身にもかかわらず累進して奉行になった者が二〇名近くいる。もっとも多いのは家禄二千石から四千石の家柄の者で、この傾向は奉行制の成立時からの傾向で、政宗によって任じられた前述の六人の禄はいずれも二千石から四千石の範囲内に収まっている。
 次に世襲という視点で見ていくと、仙台藩の奉行は 一 概に世襲と言えない側面が大きい。
 一家の大條家や宿老の遠藤家・津田家・但木家などは当主の多くが奉行となっており、世襲のような側面を見ることができる。また、江戸時代前期には一族の茂庭家 (良元-定元-姓元)、中期には一家の柴田家 (朝意-宗意-宗僚-宗理)、宿老の後藤家 (元康-寿康-良康)、後期には一家の泉田家 (胤峙-倫時-常時)、着座の芝多家(康文-信憲-常熙-常則) のように三代から四代連続で奉行を輩出している例もある。
 一方で、一人しか奉行を出していない家が二十数家あり、また奉行になった者が出たものの後が続かず、百年以上後代の当主が久々に奉行に就任したという例も幾つも見ることができる。
 奉行以外でも若年寄・出入司や、郡奉行・町奉行・公儀使と言った実務能力を要する重職でも、世襲的な側面は希薄で、抜擢人事が普通に行われている。
 仙台藩については「門閥の力が強く藩政は旧態依然たる傾向がある」などと評されることがあるが、実は能力主義的な側面が藩政期を通じて貫かれていたのである。
 近年、日本史研究では様々な面で見直しが進んでいる。仙台藩の歴史もまだまだ課題は多く残っており、今後のさらなる研究によって、知られざる仙台藩の実像が明らかになることを期待したい。

(仙台藩志会顧問)